頭がものすごく痛い。夜の公園で飲んだくれたせいだ。都会の真ん中なのにコウモリがたくさん飛んでいた。昼間あいつらはどこにいるんだろうか。
じっとしていることに耐えられないので、頭をフリーズ状態にしたままシャワーを浴びて外に出た。家から5分のところにあるドトールが最近一番落ち着く場所になっている。なんでだろう。BGMとか食器を洗う音とか、客の会話とかが混ざりあって意味を失い、分厚い雑音になっているのが心地よいのだろうか。
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知識としては知っていた事が、ある時ふと実感をともなって理解できることがある。
最近、教養書や実用書の類がまったく読めなくなった。以前、知り合いの喫茶店の店主からそういう話しを聞いた時はおかしなものだと思っていたが、自分にもそれが訪れた。読書といえば教養書・実用書に手が伸びていたのに、いまは可能な限りその手の本から距離を置きたいと感じる。仕事上の必要性から読むことはあっても、必要がなければ一切読みたくない。部屋に積んであるそれらの本を眺めていると、荷車一杯の札束があるのにパン1つしか買えないハイパーインフレに直面した人の気分になる。価値あるものだと信じていたのに、あれは何だったのだろうかと。
結局変わったのは自分の側なのだ。学生の頃と違って、現実的/実利的な物事に囲まれている今の生活の中では、これ以上そういう言葉に触れたくないと体が反応しているのだ、たぶん。いまは本の中くらいもっと自由で、感情的で、個人的な世界であって欲しいと感じる。前よりもずっと小説が身近になったのもそういうことなんだろう。現実には得難いものを本の中に求める。それが果たして幸せな読書なのかどうかはわからないけど、自分にとっては必要な読書なんだと思う。
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気づけば頭痛はだいぶ遠のいた。雨も上がったようだ。隣の席にいたはずのオバちゃんグループは去り、かわりに初老の男性が座っている。男性の手にはiPad。老眼鏡をおでこにのせて読書をしている。年を重ね、様々な知識と経験を備えていっても、人には必要な読書があるのだろう。そう思うとなぜかほっとした。